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ピアノづくり その革新の歴史を次の世代へとつなぐ

『ヤマハピアノ竪型ホーム型』(1930年代後半製)を再生保存

ピアノとの対話、つくり手の思い

こうした修復作業の過程で、技術者たちは「すごく大切にされてきたピアノだな」とか「このピアノの弾き手は、高音部を強めに叩く人だったのかな」などを感じながら、いい換えるなら“ピアノと対話”しながら作業を進めていきます。古い稀少品で設計図面など資料がないピアノの場合には、それに加えて「どうしてこうなっているのか」という疑問、「よく考えたな」という驚きなど、当時のつくり手たちの思いとも向き合うことになります。では戦前につくられ、80年以上の時を経て、ふたたびヤマハの元へと戻ってきたこのホーム型ピアノに、ふたりはどんなことを思ったのでしょう

「お子さんが弾くってことを強く意識した設計なんじゃないかなと。弾いているお子さんの顔が見えるように、あえてドロップアクションという機構を採用して全高を低くした。もしくは学校で先生が弾きながら、歌う子どもたちの顔がしっかり見えるようにオルガンをモチーフにしたんじゃないかと思います。子ども、教育の現場にいかに適したピアノをつくるか、そんなことを当時のつくり手は考えていたんじゃないでしょうか」と福田はいい、木崎氏は「戦前の大変な時期、サイズを小さく抑えて全体のコストを下げることで、安価で良いピアノを子供や教育の現場に提供したい。一人でも多くの人に音楽を楽しんでほしい、ピアノに触れる機会をつくりたい。そんな当時のつくり手たちの思いを感じる一台」だといいます。

今回のホーム型ピアノに記された製造番号。3から始まる番号は1930年代後半の製品

今回のホーム型ピアノに記された製造番号。3から始まる番号は1930年代後半の製品

1939年、第二次世界大戦が始まります。不穏な国際情勢を受け、日本でも戦時統制が進み、贅沢品とみなされた楽器には圧力がかけられ1940年には「奢侈品等販売制限」によって実質的な生産中止が命ぜられ、各楽器メーカーは「楽器製造技術の温存」を名目に細々と生産を続けます。今回のホーム型ピアノは、まさにそんな苦しい時期を迎えようとする時代に生まれたもの。福田、木崎氏のふたりがいうように、「それでも子どもたちに」「一人でも多くの人に」という、“ピアノづくりを諦めなかった”人々の思いが詰まった一台といっても、けして大袈裟ではないでしょう。

現存台数がきわめて少ない稀少なピアノを可能な限り当時のまま保存する。ひとつにそれは技術の伝承という意味で大きな価値があります。ヤマハのイノベーションはどのような軌跡をたどってきたのかを知ることは、この先の未来を担うヤマハの技術者にとって貴重な資料であり、大きな財産です。また歴史が刻まれた稀少な製品レガシーとして遺し、後世に伝えていくことは企業としての責任でもあります。木崎氏は「ヤマハという一企業の広報活動だけでなく、産業史など学術研究を支える意味でも資料保存活動は重要」だといいます。

たしかに日本のピアノづくり、楽器産業の発展の詳細については戦禍による資料の消失などから、わからないことが多いのも事実です。2001年に発刊された『日本のピアノ100年—ピアノづくりに賭けた人々』(草思社)のあとがきに、共著者の前間孝則氏は「これまで著者が手がけてきた他の分野と比べると、研究があまりに手薄で、資料の発掘もわずかでしかなく、驚きであった」と記しています。ただ一方で近年、イノベーションロードに象徴されるヤマハの資料保存活動や大学での研究などによって、歴史の空白を埋める新事実もわかってきています。

「最近では大学の先生からの問い合わせなどに応え、研究のために私たちが持つ稀少製品や資料をご提供することも増えてきました。城下町だった浜松には漆職人がいて、ピアノ塗装と密接に関わっていたこと。ピアノの木材加工技術はどうやら横浜と関係が深いらしい、といった日本のピアノづくりの流れを知る上での重要な事実が少しづつ発掘されてきています」(木崎氏)

浜松ではじまったオルガン、ピアノづくりが、その後どのように楽器産業として発展し、この地に根付いていったのか。当然、このホーム型ピアノもまた、その歴史を検証するための貴重な資料となることは間違いありません。

稀少なピアノを再生し動態保存することは学術研究の面でも重要

稀少なピアノを再生し動態保存することは学術研究の面でも重要

愛されたピアノ 再びヤマハの元へ

今回ヤマハの販売店にご相談をいただいたご依頼主は九州にお住まいの方。ピアノはご依頼主のお義母さまが小学校4年生の時(1940年)に購入したものです。後に医師となり、北九州で医院を開業されたお義母さまは、このピアノとの思い出を「北九州市医報」(1989年)に寄稿されています。最後にそれを参考にこのホーム型ピアノの辿ってきた道を少しだけご紹介しましょう。

お義母さまがピアノを手に入れた当時は、1937年に日華事変が起こり、1938年国家総動員法が成立、1939年には物価統制令が施行と戦争の足音が忍び寄っていた時代。庶民がピアノを購入しようにもそう簡単に手に入る時代ではありませんが、たまたま学校で購入予定のものがキャンセルとなり、ピアノの先生などの尽力によってどうにか手に入れることができたものだといいます。

「将来は音楽の道へ」とも考えていたお義母さまはこのホーム型ピアノで熱心に練習されたそうで、「寒い冬は洗面器に温湯を入れ手を温めては何時間も弾いたりした」、「戦時中はよく停電したのでローソクの灯りで練習したこともあった」と記しています。また戦時中は物々交換で日々の食糧を得ることが日常となるなか、このピアノに興味を示される人も多かったといいますが「(家族の)誰も手離すことは考えていないばかりか、貴重品と一緒に田舎の叔母の家に疎開させた」そうです。

戦禍をくぐり抜けたピアノをお義母様は開業や結婚などを経ても変わらず大切にされました。家を建て替えた際には「新しいピアノへ買い変えようかとも思った」そうですが、どうしても手離すことができず、こまめな調律を行っては弾き続けたそうです。それが1980年頃、調律師から「これ以上いじるとピアノ線が切れそうです」と宣告されます。経年劣化により弦の寿命が限界を迎えようとしていたのです。しかし、それでもお義母様はこのピアノを手元に置き続けました。その心境が手記にはこう綴られています。

「ふと始末しようかと考えたこともあったが、別れがつらく、この頃では私の宝物になってしまった。今でもやや金属的な音ではあるが、どの音もちゃんと出るし、時々淡いべっ甲色に変色したキーを鳴らしては楽しんでみたりしている」

今回このピアノの再生保存が実現したのは、何よりご依頼主がお義母様のピアノへの想いを汲み取り、ヤマハにご依頼をいただいたからです。「処分するにしても、このピアノのことを一番分かっているヤマハにお願いしよう」。手前味噌になりますが、おそらくご依頼主の方は、そんな思いでヤマハに声をかけていただいたのだと自負しています。

戦前にヤマハでつくられ、ピアノを愛する少女の手に渡り、戦争という時代をくぐり抜け大切にされたピアノが、再びヤマハに戻ってくる。——お客様の信頼を裏切ることなく、一台一台のピアノへの想いにしっかりと寄り添うことで、私たちはこれからもこんな“奇跡”のような、ピアノを愛した人々の歴史を紡いでいきたいと思っています。

一台一台のピアノには、作り手、弾き手の様々なピアノへの想いが詰まっています

一台一台のピアノには、作り手、弾き手の様々なピアノへの想いが詰まっています

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